MAZDAいじめ
去年の今頃はカービューのヤフコメ欄で誹謗中傷の嵐の中にあったMAZDA。困ったことに日本中で同じような立場に晒された個人、法人、団体が様々なジャンルで次々と出現し、さすがにオンライン上の誹謗中傷に関して問題視する風潮が生まれてきた。相手がMAZDAだったら何を書いてもいい!?そんな日本人特有の「集団意識」が見事なまでに暴走してきた。社会への鬱憤が溜まっていれば、何をしても許されるのか!?京王線で人を刺して火をつけた若い容疑者とやっていることはあまり変わらない気がするが・・・。
感情はコントロールできない
MAZDAも高尚なクルマなど作っているので、その手の被弾は予想の範囲内ではあっただろう。「ターボ化しろ!!」「多段化しろ!!」とカーメディアが投げつけた支離滅裂な主張に対して、ムキになって現役のエンジニアが本を出版して技術の正当性など訴えてしまえば、当然ながらカーメディアとの関係は最悪となり、面目を潰された大物ライターがネチネチとMAZDAを攻撃するだろうし、その尻馬に乗っかった素人がカーメディアで暴れる。ある意味で自ら蒔いた災いなのかもしれない。
ごくごく少数派
MAZDAに批判的なヤフコメには、「通り魔」のようなメチャクチャな誹謗中傷をするものと、「老婆心」の塊のようなMAZDAの将来を彼らなりに考えたアドバイス(何の役にも立たない)の2種類がある。前者は逮捕されてもおかしくないレベルの書き込みで、おそらく少数の愉快犯による犯行だと思われる。常識的に考えて、ただ一方的に「バカ」とか書く子供のような書き込みは、社会生活をまともに営んでいる大人には簡単には真似できる行為ではない。あまりに生産性が無いし、非常にリスクも大きい。中国や韓国への悪態もネットの日常だけど、知り合いに中国人や韓国人がいて、彼らの人となりを知る立場の人からすればあまりにも視野が狭い行為だ。
善良なる嫌なコメント
後者の「老婆心」な人々は、MAZDAの方針に安易に「ノー」と言ってしまう浅はかさこそあるものの、本質的にはとても日本人らしい「親切」な人々だと思う。「MAZDAはヘンに高級化などせず、コスパの良いクルマを作り続ければいい」という不躾なコメントにはそれほど悪意はないのだろうけど、MAZDAの経営陣やファンを不必要にイラつかせる結果になる。発信している人のキャラクターなど全くわからずに、そのコメントを読まされるので、おぼろげにMAZDAに好意的な解釈などしない「嫌な人間」が書いてるように錯覚してしまう。
高価格化が決まった訳ではないが・・・
2000年以降のMAZDAは数々の成功を収めてきたけども、「価格が高過ぎて売れない」というクルマは作ったことが無い。そして2022年以降に新発売されるモデルに関しても、価格についての情報は一切出されていない。MAZDAと因縁のあるカーメディアが「高級化する」と仮定して、その後に販売不振が当然に予想されると勝手に書いているだけである。そして取ってつけたように90年代の「5チャンネル化」の失敗を前例のように挙げている。的外れもいいところだ。
日本中が失敗していたのでは!?
過去の「5チャンネル」構想にしても決してMAZDAの経営判断が間違っていたとは言い切れない。バブル崩壊で多くの金融機関が税金投入によって助けられている状況なのだから、日本経済全体にとってもバブル崩壊は不測の事態だったと言わざるを得ない。同じようにバブル以降30年も日本人の給料は上がっていないという声が、最近になってあちこちで聞かれるようになったが、バブル期の日本の平均所得はドイツ人の2倍、イギリス人の4倍程度に達していた。つまり貰いすぎだったわけだ。バブルという歪んだ状態を基準に測定しているのがおかしな状況を生んでいる。
「物事の本質」
ややこしいことに、MAZDAの開発者やファンってのは「物事の本質」に敏感な人が多い傾向にある。周囲の同調圧力に屈しやすい人々にはMAZDAのようなクルマは作れないし、マイカーとして選ぶこともできないだろう。周囲の目を気にする人はトヨタ、レクサス、メルセデスを無難に選ぶ。だからこそ老婆心なコメントが単に的外れだっただけでも、なかなか許せない気持ちになる。マツダは廉価&迎合モデルをつくれ!!というコメントには、高圧的な印象を受け否応無しに敵愾心を持ってしまいがちだ。そして「物事の本質」にこだわる病的なリピドーがほとばしり「この人は何もわかって無いんだな・・・」と勝手に暗澹とした気持ちになる。
実力があるがゆえに・・・
Bセグメントの先代デミオ(WCOTY大賞)や、Cセグメントのアクセラ、MAZDA3はWCOTYの頂点を常に争い、名実共に世界最高レベルの「セグメントモデル」である。BMW1シリーズやメルセデスAクラスにこのような実績はあるだろうか!?グローバルの頂点を極めるMAZDAと、ドイツプレミアムメーカーの東アジア市場戦略車を比べて、非AJAJライターの福野礼一郎さんは正当なジャッジを下した。「比べるまでも無い」「足元にも及ばない」。アメリカでもイギリスでも同じような論調がカーメディアに渦巻いている。実力があるとわかっているから、MAZDAが勘違いして次のモデルをメルセデスやBMWと同じくらいの価格帯で売るだろうと・・・そんな安易な「空論」をもとに批判が繰り広げられている。
次世代MAZDAのカタルシス
MAZDAのファンにもこれとは全く別の仮説がある。東アジアでこの10年ほどプレミアムCセグがゴリ押しされてきた。実際はグローバルでも日本市場でもMAZDA3の足元にも及ばない販売台数でしかないのに、セグメントの「主役」に祭り上げられている。トヨタやホンダの北米Cセグ(アメリカの18歳が買うクルマ)と同じような「廉価&迎合」のクルマをMAZDAが作ったところで旨味なんて無い。なぜ世界最高レベルの技術を持ち合わせながら「廉価&迎合」しなきゃいけないのか!?MAZDAがやるべきは「市場の悪癖」を率先して正し、ユーザーに健全なカーライフを提案することである。MAZDA3の尖った造形への動機は、安易なプレミアムCセグへの宣戦布告であると同時に、「東アジア市場の完全解放」にある・・・それくらいしか説明できない。
BMWへの憧れ!?
国沢というライターが先日のレビューで「MAZDAは99%BMWに憧れている」と断言していた。しかし藤原さんのインタビューを読む限りではBMWのやり方に全く関心が無い様子がわかる。なんでも外注するBMWと、なんでも内製したがるMAZDAでは、クルマ作りの方針がまるで違う。ホンダやランドローバーのシャシーを流用することを全く厭わないBMWと、全て自社開発シャシーでないと気が済まないMAZDAではやはり全く違う。
MAZDAのやり方
自ら生み出したシャシーに、わざわざ自製した部品を使うメーカーは、短期間で大量のクルマを売り抜いて、短いスパンで店じまいするビジネスは採れない。日本市場向け本体価格は目一杯高めに設定し、100〜200万円の値引きで実車を売っているBMWの真似なんて、間違ってもできないだろう。10年前後のスパンで安定的に基幹モデルを売り続けるビジネスがあくまで基本だ。モデル末期になってもグローバルで40万台を軽く確保するCX-5、歴代アクセラ、MAZDA3&CX-30のような車種を「育てる」ことがこれまでもこれからもMAZDAの絶対的な方針であるはず。
他社を蹴散らす計画
Bセグ、Cセグで頂点を獲ってきたMAZDAがFRシャシーでDセグに本格参入する。やることは単純で、新たな屋台骨になり得る基幹モデルを新しいセグメントで打ち立てることだ。CX-60、70、80、90合計でグローバル40万台が実現すれば、モノコックのFRシャシー車としては画期的な数字ではある。単純な数字だと「BMWの縦置きSUV全車」「BMWの縦置きセダン&クーペ全車」「メルセデスの縦置きSUV全車」「メルセデスの縦置きセダン&クーペ全車」「アウディ縦置き全車」「レクサス縦置き全車」のどれよりも凄まじい数字だ。しかも基本の搭載エンジンは6気筒でこの数字を叩き出すと、株主説明会で発表している。
リーマンショックで散った未来
その昔、BMWのM5は、6気筒から8気筒さらに10気筒とエンジンを拡張して2000年代までわかりやすく性能をアップさせてきた。同じ時期にアウディ、アルファロメオ、ホンダも一連の高性能エンジンの開発に参入し、やや過当競争の状況にあった。案の定というべきか、暴走気味の開発競争が、リーマンショックによってごくごく自然な形で頓挫した。今日もそれらのメーカーが生き残っているという意味では、見事なソフトランディングだったのかもしれない。高性能スポーツサルーンの輝かしいはずの未来が「幻」に変わり、現在では各社共に、MAZDAがかつて経験した「5チャンネル」の時と同じような「撤退戦」を演じている。そして祭りの後には180psの直4ターボに引っ張られる5シリーズが野ざらしになっている。
歴史に背を向けるな
もしリーマンショックがなかったならば、今では世界中でV10を搭載した5シリーズが走り回っていただろうか!?先ほどは輝かしい未来などと書いたが、おそらく各メーカーの開発者は、2000年代の前半の段階で危険な予兆を感じていただろう。すでに2000年ごろから、彼らの設計はマーケットの限界を超えつつあった。金融危機があろうがなかろうが、結論は同じだったと思われる。ガソリンエンジン開発を放棄したと伝えられるドイツメーカーの夢の跡を、世界の自動車メーカーは無視したままでいいのだろうか!?このまま黒歴史として風化させていいのか!?
骨を拾う
「誰もやらないならMAZDAがやる・・・あまりに忍びないから」 これを安易な感情論と笑えるだろうか!? 自社製シャシー、自社製エンジン、自社製ミッション、自社製AWDのMAZDAであるから、価格よりも数にこだわる。先進サプライヤーに法外な部品代金をふっかけられることもないし、マイペースで内製部品の生産量を漸増させることもできる。そして外注好きなメーカーのようにトルコンATをDCTへとグレードダウンすることもない。求めるものは短期的利益ではなく、組み立て部門とサプライヤー部門が一体となって大きな雇用を守るコングロマリット化であり、競争力と社会的影響力を高めることを主眼とし、短期的利益に背を向ける「反キャピタリズム」ともいうべき次世代(ポスト資本主義)の経営手法の確立。MAZDAが当初より言い続けてきた「中国地方の経済を守る礎」という社是にも叶っている。
MAZDA批判の正体
2010年前後にドイツメーカー、アルファロメオ、ホンダの夢が頓挫したのは、今の人が見れば当然の結果に見える。そしてこれらのメーカーですら諦めたことを、2022年から始めようとするMAZDAに、一言言ってやりたい気持ちになるのも無理はないのかもしれない。「MAZDAにはメルセデスやBMWの真似は無理だ」とお節介を焼く人は、メルセデスやBMWの頓挫を口先では認めていないだろうけど、MAZDAへの「老婆心」の源泉として、おそらく「先達の頓挫」が無意識に織り込まれている。繰り返しになるが、MAZDAがこの両ブランドの真似をすると決まったわけでもないし、「内製主義」の開発方針からも、全くお手本にしていない可能性が高い。