マウンテン・ゴリラのカーライフ

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オッサンの妄想には・・・社会の真実がある!?

自動車雑誌の売り方

出版不況の中で「カートップ」も「ドライバー」もずっと女の子のグラビア企画を販売の柱に据えている。発行部数維持にはこれが一番効果的なんだろう。女の子くっつけないと売れないって段階でさっさと諦めた方がいい気がするが、どうやら当事者にもそれはよくわかっているようで、実際にどちらの雑誌も「キンドル・アンリミティッド」で無料公開する道を選んでいる。

 

別のアプローチ

インターネットや有料テレビ放送が『猥褻』なコンテンツを武器に急速に『普及』したのは公然の事実だけども、クルマ雑誌にグラビアを付けたところでそれは『普及』ではないし、ユーザーの中毒気味の依存を期待できるものでもない。「グラビア」が付くくらいだから、自動車雑誌はほぼ男性読者に限定されるのだろう。それならば、別のアプローチも成立するだろう。例えば・・・「モテる」ってなんだってことを教えるなんてどーだろうか!?

 

空気感

「ルボラン」や「カーセンサーエッジ」は欧州車中心の誌面づくりになっていて、ページをめくるたびにベストカーとはちょっと違う空気感がある。「センスが磨かれる」と感じる輩はまだクソガキの域を出ないのかもしれないが、ハイセンスなカルチャー/ファッション雑誌へと寄せていくカーメディアの戦略もあるかもしれない。

 

フェラーリの価格

カーメディアだけでなく、同じことがクルマにも言えるのかもしれない。4000万円のフェラーリ812や、3000万円のフェラーリGTC4ルッソTは、特別なエンジンを積んでいるとはいえ、基本設計はドライバーズカーに過ぎない。特別仕様のショーファー・リムジンのロールスロイスなら5000万円もあるだろうけど、個人仕様のドライバーズカーになぜそんな価格が付くのか!?理由はやはり・・・単純に「モテる」からだと思う。

 

 グランドツーリングカーの相場

フェラーリと同等かそれよりも多く流通させているラグジュアリー寄りのグランドツーリングカーはいくつかあるけども、マセラティAMGで1500万円くらい。アストンマーティンだと2000万円くらい。日本車のレクサスLCもこれに近い領域に入ってきたが、1300万円くらいだ。それに対してFRのなんの変哲も無いドライバーズマシンである812とGTC4ルッソTは何が違うのか!?確かにフェラーリのエンジンは別格だが。

 

ディープマインド!?

2007年に777万円で発売されたGT-Rのユニットが320万円くらいだそうだが、フェラーリのV12やV8ツインターボが職人の手組みエンジンであってもせいぜい500万円くらいだろう。それなのにこの2台のフェラーリは3000万円/4000万円だ。ちなみにパナメーラターボ・エクゼクティブでも2600万円だというのに。パナターボでは絶対に勝てない水準にあるというのか!?

 

 

 

人間の真実

3000万円/4000万円という価格が示すもの。それは人間の長い歴史の中で社会の「真実」として価値が確立されたものなんだと思う。それは織田信長安土城を作り、その重臣もまた各地に「自分の城」を構えた。いかに最新の文化やテクノロジーで目先を変えられてはいても、今もなお社会における唯一の真実は「統治力」なのだと思う。

 

アルファードの真実

多くの人は「金」を稼ぎ、それを使って「人生の安定」を求める。建売りのマンションの1室を買い、生命保険に入り、せっせと貯金に励み、余裕に応じて相応のクルマを買うのかもしれない。そんな生活を順調に送り遂げたならば、今の日本なら万々歳なのだと思う。そんな人のためにアルファードみたいなクルマがあるのだろう。日本では400万円で買えるけど、東南アジアでは1000万円くらいするらしい。日本では「相対的幸せを噛みしめる」人向けのクルマですが、東南アジアでは「統治能力の備わった」人向けのクルマらしい。

 

織田信長になる!?

必ずしも「統治者」になることが幸せでは無いかもしれないし、「相対的幸せ」が多くの人にとってベストなのかもしれない。しかし・・・今の日本でも案外に「野心家」は多いのでは!? 例えば・・・とても面倒くさい問題に直面するたびに、スーパーサイヤ人のように全てをブッ飛ばして終わりにできたらさぞかし愉快だろうな。そんなバーチャルな状況を織田信長は400年以上前に実現していた。それが統治力を手にしたってこと。またそれと同時に「相対的幸せ」を求める人々のマウンティングの応酬を見て、現代人とはなんて愚かな生き物なのだ・・・と絶望する瞬間ってありませんか!?

 

茶道!?哲学!?

「自分以外は全てバカ」なんて勘違いした気持ちはさらさら持ってないし、一人で過ごす時は、常に賢人のクリティカルな「言葉」をどこかで求めている。ニーチェレヴォストロース、ボードリヤールの中に、多少は好き勝手な解釈を交えつつも、自分のクソな状況を言い当てたものを見つけた時に、とても救われた気分になる。そして「相対的幸せ」を求める人々の存在をスーっと忘れ去ることができる。何が言いたいかって!?その先には、「何事にも怯まない自分」が何かに向かって動く瞬間がだいだい待っている。

 

オッサンの5階層

つまり一人のオッサンの中にも色々な人格がある。「グラビア」に惹かれるレベル。「モテたい」と願うレベル。「相対的幸せ」を掴みにいくレベル。「何事にも怯まない自分」を感じるレベル。その先に「統治力」を手にする。これ・・・『オッサンの5階層』とでも名付けようか!?

 

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